2012年6月27日水曜日

薮原検校


世田谷パブリックシアター  2012/6/27(水) 18:30~

演出 栗山民也

主なキャスト:野村萬斎 秋山菜津子 小日向文世 熊谷真美

(感 想 等)
 演目としては1973年初演以来、日本で、世界で称賛を浴びてきた傑作ピカレスクであり、今回、狂言師:野村萬斎が杉の市のちの二代目薮原検校をどう演じるか? 2007年に蜷川幸雄が演出したこの人気演目を栗山民也がどう演出するか?が、 見どころかと思われる。 栗山民也氏の演出ということで興味をもって観劇させていただいた。スライディングステージに赤い綱といった極めてシンプルな舞台装置でスライドのさせ方、ちょっとした小物(川を表す青い布等)、明りで作った障子の影等で見る者を納得させる演出はさすがだなと思わせるものでした。また、真っ赤な綱が四方に張り巡らされた、ほぼ真っ暗な舞台に、座頭達の白木杖を打ち鳴らす音が相まって、非常にシャープな印象をうけました。
盲太夫の語りと津軽三味線風に弾かれるギター以外は黒衣によって操られる人形浄瑠璃としての
劇中劇であるということをこの赤い綱に囲まれた、真っ暗な舞台が際立たせている演出だったように思います。
 杉の市=二代目薮原検校を演じた野村萬斎はさすがに古典芸能の世界で鍛錬してきただけのことがあり、演技でのリ・体の切れ、膨大な量のセリフを早語りするところなど、さすがと思わせる演技であった。
 小日向は七兵衛(杉の市の父親)、塙保己市(劇中名:実在したのは保己一)を演じたが、杉の市と対極にある保己市役では、淡々とかつ軽妙にしかし、一言一言、言い含めるような言葉の重みを感じさせながら演じていたのは野村萬斎演じる”杉の市”と役作りの上でも対極にあり、素晴らしかった。
 杉の市の最初の師匠”琴の市”の女房”お市”を演じた秋山菜津子は、なまめかしく、猥雑で、かつ悲しくて、哀れな”お市”を演じ切っていたように思う。

(総 評) 「おれはもっともっとやりていことがあるんだ。この世の中を登れるところまでのぼってみてえのさ。「・・・盲がどこまで勝ち進めるか、賭けてみるんだ。・・・」 ここまでは、杉の市も塙保己市も全く同じ。江戸時代の徹底した差別社会の中で盲人として差別され、盲人の中でも身分階級が存在するがんじがらめの社会の中で、必死に上へ這い 上がろうとした時、自分の武器は「悪事しかない」と思い、悪事を重ねながら、蓄財し、登っていこうとした杉の市と晴眼者に伍して戦うには「品性と学問」しかないと生きる塙保己市を対象的に描かきながら、それでも、お互いが最大の理解者同士であることを、描くことで、この話が持つ悲しさを際立って表現しているように思う。

 最後に”杉の市”を「最も残虐な方法で罰せよ!それが彼が望むところである。」と松平定信に進言する言葉に良く出ていると思う。保己市は厳しい進言をしつつも、最後まで、何度も”杉の市”を「同志」と呼び続けるところに、作者の差別社会に対する痛烈な批判があるように思う。


2012年6月24日日曜日

スタジオライフ 天守物語


紀伊国屋ホール  2012/6/24(日) 18:00時
演出:倉田 淳   美術:宇野 亞吉良  曲:今井 寿
主なキャスト:岩崎 大  松本 慎也
   



(感 想 等)
 スタジオライフとは? どういう劇団か見たくて観劇。
 舞台装置、演出はごく普通か? 演出・セリフは私の見る限り、原作に忠実(むしろ、原作のまま)特に目新しさを感じるところが無かったのは残念。役者的にはそれなりのメンバーと残念なメンバーが3対7で混在している感じ。
 折角、男だけで演じているのに、妖艶な魅力を出すこともなく、劇団内の序列で決まっているような配役にはがっかり、これでは泉鏡花が泣いているかと思われる。

 帰り際に、後ろを歩いていた大学生と思しき面々が「ジャニーズに成れなかった役者が、ジャニーズファンに成りきれない人たちに贈る芝居かな・・・・」と言っていたのが、まさに言いえているか?

 折角沢山のファンを抱える劇団なのだから、もう少し、演劇性を高めていけば、よりメジャーに成れるのか?なという感想でした。

南部高速鉄道


世田谷シアタートラム  2012/6/24(日) 14:00時
演出:長塚圭史     企画協力:葛河思潮社
主なキャスト:真木よう子 江口のりこ 梶原善 黒沢あすか他

高速道路が原因不明の渋滞に巻き込まれ、そのため隔離された高速道路上で繰り広げられる、人間模様を描いたもの
(感 想 等) ラテンアメリカの作家フリオ・コルサルタルの幻想小説「南部高速道路」をベースに長塚圭史が演出した芝居。長塚圭史の演出と真木よう子の演技が見たくて観劇。
 シアタートラムという小屋の問題もあろうが、舞台は客席が東西南北に作られた真ん中に設定されていて、舞台上には基本的に何もない。渋滞に巻き込まれた車は演者がもつ”傘”が表現するというもの。最初の内は、傘=車という舞台装置のあまりの貧困さに違和感を感じながら見ていたが、次第に傘=車に引き込まれていったのは演出家のワザか?
 また、現実離れした話であるが、渋滞が1シーズンに及ぶにも関わらず、最後まで登場人物を名前で呼ぶことはなく、常に車の名前「マーチさん・グロリアさん・ミニさん・・・・」、役割名「バスの運転手さん、リーダー」で呼び続けるところに、この話の現実と幻想が交差する独特の世界があるように思う。見る者には非日常がいつの間にか日常として埋没していき、日常の中に非日常を見出していくような奇妙な感覚に引きづり込まれていくように思う。

 この作品は、台本がなくワークショップを通して作られたというから、2時間を超すこの芝居を演じ切った役者さん達は大変であったろうと思う。
 
 最近、テレビ・映画で活躍の真木よう子はこの舞台の中では最後まで「ミニさん」と呼ばれているが、彼女一人が常に冷静で、日常・非日常に埋没するこなく、この芝居の中で常に「現実」で有り続けているような気がする。観客である我々は彼女を通して、現実と幻想の交差点を感じられるような気がします。演技としては、この独特の芝居の中で、上述のような役回りをうまくこなし、存在感を発揮していたように思う。
(総 評) 見終わった後に、何とも不思議な肌触りが残る作品である。本来原作の意図するところは、良く分からないが、非日常が日常に埋没していくさまが、滑稽で有ると同時に背筋が寒くなるようなぞっとした感覚を覚える作品である。




2012年6月15日金曜日

サロメ 新国立劇場 宮本亜門演出

本日は新国立劇場で「サロメ」
オスカーワイルドの傑作を平野啓一郎が新訳、宮本亜門が演出したもの。

出演は
多部未華子 成河 麻実れい 奥田瑛二
従来官能的に描かれることの多い「サロメ」ですが、今回はサロメの持つ純粋無垢、無邪気さに焦点を合わせて描いたとのことである。しかし、サロメという狂気の存在からおどろおどろしいまでの官能性を取り除いてしまうと、そこに残されたものは、よくある・・・そう、一般的な女性像ではないのか? まさしく女性がもつ、自己愛・身勝手さ・処女さえがもつ娼婦性・・・。
オスカーワイルドは同姓愛好者であったという、このことと無縁でないような気がする、そういう意味では、このたびの平野新訳は的を得ているのかもしれない。また、今回の演出家自身も本質的に女性がお好きでないのかもしれない。

今回サロメを演じた多部はこういうサロメを上手く演じていたように思う。女王役の麻実れいも存在感があり、舞台を盛り上げていた。王役の奥田が少し残念だった様に感じられた。

2012年6月12日火曜日

2012年6月8日金曜日

京劇 西遊記


日経ホール  2012 6月8日 19時

(感 想 ) 今回の公演は北京京劇院によるもの。北京京劇院は中国最大規模を誇り、多くの名優を育ててきた歴史のある劇団。国家重点京劇院団にも認定された、中国京劇界の中心的存在。日本人には梅蘭芳(メイランファン)の劇団と言った方がなじみ深いか? 日中国交正常化40周年という記念の年を飾るに相応しい公演かと思われる。
演目は西遊記「孫悟空大鬧天宮(だいとうてんきゅう)」、西遊記というと日本では孫悟空が三蔵法師のお伴をして天竺へ 旅する道中の冒険を思い浮かべがちですが、これはそのずっと前、
孫悟空が本拠地花果山で「サルの王様」を名乗り、より強くなるための方法を求めて子ザルたちを手下に従え大暴れしていた頃の物語です。西遊記の中では人気の演目。

(公演について) 内容は、孫悟空が花果山で子ザルたちを従え「サルの王様」を名乗っていたころ、孫悟空に如意棒を奪われたと龍王が天の玉帝に訴え出たところ、孫悟空に役職を与えて
おとなしくさせようという太白金星の策が採られ、馬屋番、桃園番と順番に役職が与えられるが、 そのたびたび、大した役職でないことから、孫悟空が怒り出し、大暴れを するというもの。 最後は、食べると不老長寿が約束される仙桃や不老不死の金丹を食べつくして大暴れし、玉帝の
派遣した、李天王も撃破し、手がつけられなくなってしまうというもの。

 前半はまだ、サルのころの面影も残っていることから、表情づくりやセリフ回しを得意とする道化役の李丹(リーダン)が後半は派手な立ち回りが多いことから、立ち回りを得意とする、ジャン・レイが演じている。今回の公演では二人の役者が演じ分けることで、役の特徴を際立たせていたようである。

(総 評) 京劇を観劇したのは、今回が初めてでしたので、とても新鮮でした。字幕つきでは有りますが、分かりやすい話で有ることもあり、見ていると何となく話の展開が分かり、エキサイティングな動き・踊りと音楽に引き込まれて行きました。ただ、なんと言っても、第一印象は「なんて歌舞伎とにているんだろう・・・・」というものでした。

香川照之が歌舞伎挑戦前に、この北京京劇院で京劇体験を行ったことが頷けます。
 歌舞伎役者の立ち回り・見栄を切るところ、それに対するお客さんの「よっ! ○○や!」という掛け声・・・京劇も全く同じように役者のポーズ(見栄)、お客の掛け声(今回日本公演は少なかったが)とあまりに似ているのでびっくりしました。
 
 全体的には前半部分のリー・ダンの演技については、京劇らしい、立ち振る舞い・表情づくりを楽しむ部分なのだろうが、席の位置の問題もあろうが、なかなか掴むことが出来なかった。後半のジャン・レイの演技については、声に伸びが有り・体のキレもよく、立ち回りシーンは楽しめた。

 ただ、全般的に芸・演出が古臭く感じられ、昔からの芸を同じように続けてきているように感じられてならないし、今の時代ならキレのある体の動きであれば、「シルクドソレイユ」でも「K-バレエ」でも、もっと躍動感を楽しめるように思われる。
 歌舞伎も概ね同じころ、庶民の芸能から発達し、現在も日々進化し上演されていることを考えると、京劇の世界は止まっているのかな?といった感想をもってしまいます。私見ですが、このことは、「京劇」が近代、歴史に翻弄されてきたことと無縁ではないように思えます、文化大革命による弾圧がなければ、京劇もより舞台芸術として洗練され・花開いていたように感じます。やはり、文化は健全で平和な社会があってこそ花開いていくものなのかなと思います。 
 「京劇」鑑賞後、何となく胸に残ったわだかまりは、これだったのかなと思います。