2013年1月18日金曜日

祈りと怪物 〜ウィルビルの三姉妹〜 蜷川Ver

シアターコックーン  2013/1/18 18:30~


企画・製作 Bunkamura Quaras
主なスタッフ 作: ケラリーノ・サンドロビッチ  演出:蜷川幸雄
主なキャスト 森田剛 勝村政信 原田美枝子 中嶋朋子 橋本さとし 伊藤蘭 古谷一行 他
ケラリーノ・サンドロビッチ作の「祈りと怪物」を作者のケラと蜷川幸雄を演出対決するという企画の蜷川版

もともとは観劇予定外で有ったが、年末にKERAさんバージョンを見て、
KERAさんの作品を蜷川さんがどう演出するのか?楽しみで結局観劇してしまいました(^-^)/。
二つの作品を見比べて思うのは、キャスティングの違いがこんなにも、一つの作品を違ったものに見せるのか?と云う点。
勿論、これは演出の問題でも有るので、演出の違いと置き換えてもいいのかもしれないが。
この芝居はそもそも、KERAさんの作品段階から何で「ウィルビルの三姉妹」と云う副題がついているのか?良く分からない作品である(私には) 。それに併せて、誰が主役かもはっきりとは分からない作品であるから演出家の解釈によってキャスティンも大きく変わってくるのだろうとは思う。


 今回のこの演出合戦という観点から、見るとやはり作者のKERAさんの方に分が有ったように思われた。もっともKERAさんは元々「架空年代記」的な作品を得意としているから、最初から予想
された結果ではあるが。
 キーとなるキャスティングとしては、町を支配する、ドン・ガラス・エイモスに勝村政信、動物園の飼育員トビーアスに森田剛、司祭に古谷一行、錬金術師に橋本さとし、召使の妻に伊藤蘭、と言った布陣。皆、それなりにすばらしい演技をしていたが、エイモスを演じた勝村がいつもの演技とは全く異なる味を出していたところは、すばらしかった。ただ、KERA演出では大倉孝二が演じ、キーとなりなっていた錬金術師の連れている道化には、あまり知られていない役者を配し、印象が弱いことと、KERAバージョンでの大倉孝二の個性溢れるパワフルな演技とのギャップでこの芝居をKERAバージョンとは違うものに見せている。 蜷川Verはどちらかと言えば各章毎にぶつぎれな感じで、この芝居の持つ「架空年代記」的面白みを仕切れていない。どちらかと言えば街に流れ着いた若者が最後にエイモスの子であることが判明し、自分と母を捨てた父=エイモスに復讐するといった、復讐劇かのような終わりとなっている。 全体に中途半端な印象を免れ得ない。章立てで前半が淡々と進んでいくため緊張感がない、また、KERA演出では戯曲らしい言葉遊びが随所にあり、見ていて楽しめたが、そういう部分が全くなく、全体に退屈な演出になっている。
所詮、作者ではないのだから、もっと大胆な解釈か、あるいは、戯曲として作り込みをして欲しかった。
KERA演出と同じく、コロスを使って、芝居全体に抑揚と連携を付けようとしているが、和服の日本的な人物と西洋風な人物が混在しており、かなり違和感がある。芝居全体が洋風で進められているにも関わらず、日本風のチンドン屋を出してくるあたりは、インパクトを狙ったんだろうが、全体から浮いているだけで、バランスを崩しているだけのように思われる。
 最後に、捨てた子からの復讐を受け、急激な没落に至り、路頭に迷うエイモスの姿が描かれるが、去っていく舞台の先の壁を空けてしまい、劇場の外を見せたのは、いただけないと思う。シアターコックーンの舞台の後ろが搬入口になっており、そのまま外に繋がっていることを利用したのだろうが、これは一回やってしまえば、もう誰も使えない(ビックリしなくなる)演出であり、禁じて?反則?ではなかろうか?
 演劇とは本来舞台の上で、感動・驚きを作り上げ、現実以上のリアリティを表現するものかと思います、そのエンディングシーンで建物自身が持つ現実のビックリを見せるということ(へーこの劇場こんな造りになってたんだという驚き)は、4時間に渡って演じてきた芝居のもつ力を演出家自身が放棄したことではなかろうかと・・・・。






 





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